村野は大正のはじめ、早稲田の学生時代に今和次郎(コン・ワジロウ)を師とし、また後藤慶二の豊多摩監獄によって建築への目を開かれ、初期の表現派の養分を存分に吸ってスタートしている。
しかし、卒業後、大阪の渡辺節の事務所に入り、学生時代には避けていた歴史様式を鉛筆遣いから全体の納まりまで仕込まれ、さらにニューヨークに派遣され、帰国後は筆頭スタッフとして、大阪商船神戸支店(T1)から綿業会館(S6)にいたるまで渡辺節のアメリカン・ボザールの傑作全てを担当した。
しかしその10年間、日本のモダン・デザインの進展は著しく、分離派の結成があり、学生時代の仲間の今井兼次は早稲田大学図書館を表現派で飾り、師事した今と分離派の間には高い質の論争があった。
そして村野が独立した昭和4年には表現派の時代は終わり、中心メンバーはより新しいモダンデザインへと脱皮していた。
独立した村野は、シベリア経由でヨーロッパに旅立ち、ロシアではウラディミール・E・タトリン、モイセイ・Y・ギンスブルグなどのロシア構成主義のリーダーに会い、さらにフィンランドへ迂回してラグナー・エストベリーのストックホルム市庁舎に激しくうたれ、ドイツに入ってからは、表現派のリーダーのフリッツ・ヘーガーに会って自分の十合デパート案に朱を入れてもらい、さらにワイマールのバウハウスを訪れ、またシュツットガルトのジードルングで、コルビュジエやミースの作品に触れ、そしてオランダではアムステルダム派とデ・ステイルを見聞し、フランスへ出てコルビュジエやオーギュスト・ペレを見てからイタリアへ抜けた。
モダンデザインの歩みを確認した村野は、デザイナーとして今後生きてゆく姿勢を決めた。表現派に帰ること、歴史主義を全否定しないこと。この姿勢の最初の成果として森五商店が生れる。初期モダニズムのシャープさと表現派に由来する壁面の深い味わいが溶け合ったようなデザインを後期表現派という。森五商店で打ち出されたデザインは、6年後の宇部市民館で頂点に達する。
村野以外の後期表現派には、安井武雄、渡辺仁などがいる。
村野と白井晟一、ともに正当なモダニズム路線からは距離を置き、西洋と日本の「相剋」を独自のスタイルへと昇華させた巨匠といえる。
村野はアメリカ・ヨーロッパへの数多くの旅の中で、北方系の文化や建築にある平衡感覚を直感したといえる。
〜 建築作品 〜
| 森五商店(現・近三ビルヂング) (DOCOMOMO100選) |
1931 中央区日本橋室町4-1-21 | ![]() |
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| 宇部市民館 (DOCOMOMO100選) |
1937 山口県宇部市朝日町 | ![]() |
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| 高島屋東京店増改築 | 1952 中央区日本橋 | ||
| 世界平和記念聖堂 (現・カトリック※町教会) (DOCOMOMO100選) |
1954 広島県広島市中区 | ||
| 読売会館(そごう有楽町店) | 1957 千代田区有楽町 | ||
| 都ホテル佳水園 (現・ウェスティン都ホテル京都佳水園) (DOCOMOMO100選) |
1959 京都府京都市東山区栗田口華頂町 | ||
| 早稲田大学文学部 | 1960 新宿区戸山 | ||
| 日本生命日比谷ビル(日生劇場) | 1963 千代田区有楽町 | ||
| 千代田生命本社ビル | 1966 目黒区上目黒 | ||
| 日本ルーテル神学大学 | 1969 三鷹市大沢 | ||
| シトー会西宮聖母トラピスチヌ修道院 (DOCOMOMO100選) |
1969 西宮市鷲林寺町 | ||
| 東光庵 | 1970 帝国ホテル内茶室 | ||
| 箱根樹木園お休み処 | 1971 神奈川県箱根町元箱根 | ||
| 日本興行銀行本店 | 1974 千代田区丸の内 | ||
| なだ万山茶花荘 | 1976 千代田区紀尾井町 | ||
| 大阪ビルディング紀尾井町ビル | 1976 千代田区麹町 | ||
| 箱根プリンスホテル | 1978 神奈川県箱根町元箱根 | ||
| 紀尾井町南部ビル | 1980 千代田区紀尾井町 | ||
| 新高輪プリンスホテル | 1982 港区高輪 |